安満の里 春日講

春日町の歴史(キリシタン史)

1500年代の春日町

キリスト教の布教
※以下、主に宣教師書簡から抜粋
・1553年 春日を治める領主(籠手田氏)がキリシタンに改宗。
・1558年 ヴィレラ神父の意を受け、春日町で一斉改宗が行われる。
・1561年 アルメイダ神父が春日で十字架を用いて祈祷したあと、主要なキリシタンの家に宿泊。また、春日の教会は「清浄で荘厳な場所にあり、海陸の眺望が美しい」と記されている。
・1563年 春日に良い教会があることや慈悲の組に関することなどが記されている。また、春日はすべてキリスト教徒であった。
・1571年 平戸には14の教会と5000人の信者がいた。
・1599年 藩主の松浦隆信が没した際に、籠手田氏への圧力が強まり、数百名の信者を率いて平戸を脱出する。籠手田氏の退去が転機となり、平戸地方のキリシタンは冬の時代を迎えることになる。以後、旧籠手田領は松浦氏の直接支配に置かれ、禁教政策が取られた。

現在の春日町

・春日町は平戸島西岸に位置し、辰ノ瀬戸を挟んで生月島に面する海岸沿いの集落で、東側にそびえる安満岳の麓に位置し、尾根に挟まれた2筋の谷に家屋と水田が広がっています。平戸島西岸から安満岳への登山道がある事から、中世の春日は安満岳に存在した山岳寺院と密接な関係があったと考えられます。
戦国時代の春日は籠手田(こてだ)氏の領地に属していましたが、同領で永禄元年(1558)に一斉改宗がおこなわれたのに伴いキリシタン集落となり、永禄4年(1561)にはイエズス会修道士アルメイダによって教会が建てられています。なお当時の書簡には教会建立以前から十字架が立てられていたとされていますが、その場所は、現在棚田の中央に残る丸尾山という丘と推測され、発掘調査によって、キリシタンの埋葬に特有の長方形の墓穴が確認されている事から、墓地を伴う十字架山だった可能性もあります。禁教時代に入ると十字架は壊され、墓地も他の所に営まれるようになりますが、丸尾山はその後も耕地などに利用される事なく、聖地として現在もお祀りされています。また集落は、仏教や神道と併存させながらも、組を組織して、キリシタンの信仰形態を存続させていました(かくれキリシタン信仰)。また近年まで、生月島民が安満岳に参拝する時の登山口ともなっていました。
春日の2つの谷には棚田が広がっており、最高所は標高150メートルに達します。安満岳と周辺の森がもたらす豊かな水とともに、かつては海岸の藻や、生月島で得られる堆肥を投入して稲を育て、山林から切り出した薪を生月島に供給して収入を得るなど、生月島とは深いつながりを持っていました。現在、棚田の景観が国の重要文化的景観に登録されており、世界遺産暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産となっています。(平戸市教委の説明文に加筆修正)

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